今週の必読 週刊文春 掲載記事

「日常」という「大きな世界」を生き抜く力をくれる小説

『なぎさ』 (山本文緒 著)

評者中江 有里 プロフィール

なかえ ゆり/1973年生まれ。女優・作家。著書に『結婚写真』『ティンホイッスル』『ホンのひととき 終わらない読書』がある。

やまもとふみお/1962年神奈川県生まれ。99年、『恋愛中毒』で第20回吉川英治文学新人賞受賞。2001年、『プラナリア』で第124回直木賞受賞。著書に『ブルーもしくはブルー』、『アカペラ』など。本書は15年ぶりの長編小説。 KADOKAWA 1600円+税

 とりとめのない話に思えるのに、なぜこれほど深く沁みるのだろう。映像でもなく、ノンフィクションでもない小説の力をあらためて感じる。

 山に囲まれた故郷を逃れるように出て、海のある久里浜に居を構えた佐々井夫妻。夫の会社がブラック企業と気づいた妻の冬乃は夫が解雇される前に仕事を決めようと考えているが、内心「ほどほどに働きたい」と一歩踏み出す勇気を出せないままでいる。夫妻のもとに転がり込んできた妻の妹の菫に誘われ「なぎさカフェ」を久里浜で始めることになるが――。

 日常を薄くはがすように丁寧に描写される。ひとり眠る夫の真意をはかりかね不安になるのに、同じベッドでは眠れない冬乃。住まい、家族、仕事など、人は様々なものに縛られる。そして同時に縛られないことを恐れてもいる。夫が仕事に疲弊し、どんどん病んでいく様子は、読んでいて怖くなってきた。

「いろんなことが鬱陶しい。なのに人恋しい」と佐々井の部下である川崎は嘆き、「同じ悩みにそろそろ飽きろ。人生の登場人物を変えるんだ」と「なぎさカフェ」のオーナーであるモリは言う。どちらの言葉も真に迫っていて、両人ともあまり好ましくないのに妙に共感してしまう。そして「探せばどこかに自分の体と心に丁度いい仕事があるに違いない」と幻想を抱く冬乃を「甘い」と思いながら、自分だって同じことを考えていることに気がつく。人の善悪を超越し、それぞれの持つ悩み、苦しみが波のように押し寄せては引いていく。

『なぎさ』の世界観は、海と山に挟まれた久里浜の地形に似ている。故郷を離れたように山を背にして波打ち際に立つと、思いがけない力強さで波に足をさらわれそうになる。不安定な砂の上で両足を踏ん張るより、このままさらわれてしまいたい「恐怖と誘惑が寄せては引いていく」という感情は、生と死とを分かつ此岸を彷彿とさせる。踏ん張った足をどこへ踏み出そうかとだれもが迷っているのだ。

 わたしの目の前にもきっと見えない「なぎさ」はある。「なぎさ」はあらゆるものに例えられるが仮に「世界」だとする。騒いだり凪いだりしている「世界」となるべく離れていきたいが「世界」と無関係に生きていくことはできない。いつかは「世界」と向き合い、時に「世界」に屈する場合もある。普遍的な人間を描きながらこんなにも大きな世界につながった衝撃に読後しばし呆然とした。

 勝ち目も爽快感もなくても、とにかく今日を生きる力を手渡してくれる一作だ。

この記事の掲載号

2013年12月5日号
2013年12月5日号
「中韓同盟」10の虚妄
2013年11月28日 発売 / 定価380円(税込)
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