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「激動の昭和」を生きた「平凡な女」の半生記

『昭和の犬』 (姫野カオルコ 著)

評者藤田 香織 プロフィール

ふじた かをり/1968年三重県生まれ。書評家。著書に「だらしな日記」シリーズ、『ホンのお楽しみ』、共著『東海道でしょう!』他。

ひめのかおるこ/1958年滋賀県生まれ。2010年、『リアル・シンデレラ』で第143回直木賞候補。主な著書に『受難』、『ツ、イ、ラ、ク』、『ハルカ・エイティ』、『整形美女』など。 幻冬舎 1600円+税

 人生も半ばを過ぎると、ふと、来た道を振り返り、思い煩うときがある。自分はもっと多くのものを得られたのではないか。今よりもっと幸せになる道があったのではないか。考えても仕方のないことだと分かっていても、今、手の中にあるものと比較し、悔やんだ経験のある人は決して少なくないだろう。昭和三十三年に生まれた主人公、柏木イクの半生を描いた本書は、そうした誰にでもある、けれど言葉には出し難い気持ちに寄り添う物語だ。

 嬰児のころより、さまざまな人に預けられ育ったイクは、五歳で初めて両親と共に暮らし始める。しかし、シベリア帰りの父親は、気に入らぬことがあればすぐに赫怒(かくど)の声をあげ、母親はいつも心ここにあらずといった風体で、年頃になったイクに下着を買い与えることもなかった。

 やがて高校を卒業したイクは、そんな親元から脱出し東京へ出るが、バブル景気で賑わう都会に暮らしながら華やかさとは無縁の日々を過ごす。当時既に珍しくなっていた「貸間」に住み、仕事を終えると近所のコミュニティーセンターの食堂で夕食をとり、銭湯へ行き、休日は頻繁に病床についた親族の介護のため東西を往復する暮らし。当然、恋とも無縁だった。

 にもかかわらず、独身のまま四十九歳になったイクは、顔馴染みになった老人の犬を撫でながら言うのだ。

「今日まで、私の人生は恵まれていました」、と。

「激動の昭和」と呼ばれた時代を背景にした平凡な女の物語である。副題に遠景という意味のperspectiveという言葉が使われているように、姫野カオルコは絶妙にイクと読者の間に距離を保っていく。衝撃もない、感嘆もしない、号泣することもたぶん、ない。けれど、読み終えた手のなかには確かな温もりが残るだろう。

 時間を、距離を置き、離れて見るからこそ掴めるものがある。それが「今」を生きる私たちの支えになっているのだと、本書は静かに語りかけるのだ。

この記事の掲載号

2013年10月24日号
2013年10月24日号
小泉純一郎元総理 「原発ゼロ宣言」に物申す!
2013年10月17日 発売 / 定価380円(税込)
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