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サリンジャーを書き直す

『バナナ剥きには最適の日々』 (円城塔 著)

評者都甲 幸治 プロフィール

とこう こうじ/1969年生まれ。早稲田大学文学学術院教授、翻訳家。専攻は米文学・文化。著書に『偽アメリカ文学の誕生』がある。

えんじょうとう/1972年北海道生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。2007年「オブ・ザ・ベースボール」で文學界新人賞受賞。10年『烏有此譚』で野間文芸新人賞、12年『道化師の蝶』で第146回芥川賞を受賞。本書は芥川賞受賞後第一作となる。 早川書房 1575円(税込)

 サリンジャーは死んでいない。円城塔がいるからだ。もちろんサリンジャーと彼では国籍も言語もジャンルも違う。だが彼は亡くなったはずのサリンジャーの作品をいまだ書き続けている。

 通常、作家は先輩から主題や表現を拝借する。しかし円城が取り出すのは作品の抽象的な構造だ。たとえば『オブ・ザ・ベースボール』において、サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』から抽出されたのは、人生において人が落ちていくという上下運動とキャッチャーという存在だ。

 ならばバッターがいてもいいじゃないか。そして天から降ってくる人々をバットで打ち返す男たちの物語が生まれた。こうして、内容面ではオリジナルと共通性がない『キャッチャー』の、ある意味で本物の続編が書き上げられたのだ。

 短篇「バナナ剥きには最適の日々」は、サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』所収の「バナナフィッシュ日和」を再び書く試みである。結果として元の話とは全く違うものになっているが、円城の実験は成功している。なぜなら、人は自己という牢獄から出られるか、というサリンジャーの問いを彼が引き継いでいるからだ。

「バナナフィッシュ日和」でシーモアは女の子と魚の話をする。バナナの食べすぎで穴から出られなくなったバナナフィッシュはどうすればいいのか。そして肥大する自意識の出口を穿つように、彼は部屋で自分の頭に銃で穴を開ける。

 一方、「バナナ剥き」の主人公は、宇宙人を探索すべく放たれた宇宙船内の人間型意識である。友人などあり得ない環境で、ただ淋しさだけは実在する。「哀しいなと思うのだけど、具体的な思い出なんていうものもドアの向こうで途絶している」。彼を笑うことはできない。友人とはスマートフォンの画面上の文字列のことで、肉体はその仮の置場でしかない、と感じる僕らと、宇宙船の彼は、他者を真に実感できない点で変わらないからだ。

 円城の諸作品には多様な構造が登場する。だがそこにある感覚は常に同一だ。僕らはなぜ機械ではなく、死に腐敗する肉体でしかないのかという違和感、そして他者に行き着きたいという切迫した願いである。高度な抽象志向と驚くほど素朴な感傷のアンバランスさが彼の魅力だろう。

 寝たきりの老人を動かしてコマ撮り映画を撮り、超人に仕立て上げる「祖母の記録」もいい。死すべき肉体を増やすだけの男女の恋愛への嫌悪や、老人や若者を弱者と決めつける社会を超えたいという思いが、グロテスクでさわやかな青春物として結実している。

この記事の掲載号

2012年5月24日号
2012年5月24日号
野田聖子「奇跡の出産」の陰で献身夫「裏切りの二股愛」
2012年5月17日 発売 / 定価380円(税込)
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